アフリカ大陸を旅して2ヶ月が経ちました。喜怒哀楽の極限に至るまでに揺さぶられる心情はアフリカでしか経験できないのではないかと思う。
アフリカを旅したブロガーの多くは「実はアフリカはこんなに素晴らしいところ、想像と違う」といった内容を綴ることが多いが、僕は違った角度から現実を伝えたい。
(エチオピアの首都アディスアベバ)
Racial discrimination=「人種差別」
国によって、地域によって、人によってその度合いは違う。だから一概には言えないが確かにアフリカ大陸には「人種差別」が存在する。そして、アジア人である以上必ずや恰好のターゲットになる。
「チンチョンチャン、ジャッキーチェンカモン!Fack 〇〇」
言葉で言うならまだ許せる。ただ石を投げられたり、唾を吐かれたりしたこともある
僕だって楽しく旅をしたい。もちろん怒りたくなんかない。でもこの瞬間だけは絶対に許したくない。
(大虐殺のあったルワンダの首都キガリの夜景)
歴史上の「大虐殺(Genocide)」は、ほとんどが正当な理由のない差別または特定民族に対する侮辱から起きた悲劇のはずだ。特定の人々に向けたヘイトスピーチがマジョリティーの非知識層を煽動し大量殺戮につながる。これらはダルフール、ルワンダ、アルメニア全てに当てはまる。その度に国際社会は形式上の反省を繰り返してきた。過去の悲惨な出来事とアフリカにおけるアジア人差別を結びつけるのは果たして強引であろうか?
僕はそうは思わない。
加害者は差別を認識せず、被害者は見て見ぬふりをする。いわば差別を肯定しているともいえる。構造はどれも同じではなかろうか。
差別はどんな理由があろうとも許せない。過去に我々はたくさんの過ちを犯してきた。
「これくらいいいだろう。だってあいつらが悪いんだから。」
そんなひょんな意味づけが数多の無実の人々を苦しめてきた。
(スーダン・カッサラ の夕日)
日本人とアフリカで出会うと皆、口を揃えてこう言う。
「差別なんて気にしなければいいですよ。無視してればいいだけ」
あり得ないと思う。それでは差別を受け入れているではないか。正当化されるわけのない差別に対して反論しなければ、差別を助長させる。 僕はそう思う。
自信を持って反論しよう。
差別に対してだけは何度も声を荒げて反論してきた。取っ組み合いの喧嘩になって警察に止められたこともあった。でもいつ如何なる時でも日本人として生まれてきたことに誇りを持ちたい。
国籍に、人種に、宗教に、それら全ての「違い。」に優劣なんてあっただろうか?僕はそんなこと教わっていない。
心動かされるアフリカでたくさん苦しんできた。それ以上に素敵な仲間もできた。ひとつのひとつの小さな出来事が僕の旅を形作ってきた。
(ウガンダの赤道)
異国の地にお邪魔して素敵な時間を沢山の人から頂いた。だからこそ自分の意見を持っていたい。軸は強くありたい。19年間の自分が歩いてきた世界とは「違う。せかい」で自分であるために…
I am Kantaro Senoo from Japan.