https://www.bbc.com/japanese/35157891
(BBCニュースジャパン:「ケニアで襲撃 ムスリム、キリスト教徒をかばう」)
〜Kenyan Muslims shield Christians in Mandera bus attack〜
2015年12月22日 BBC NEWS より
違う。ことが何故いけないのか
まず初めに、2019年1月15日にケニアの首都ナイロビで起きたテロ事件において亡くなられた方々ならびに被害に遭われた方々に、お悔やみとお見舞い申し上げます。
My sincere condolences for the death of Kenya hotel attack.
My prayers are with you during this difficult time.
In deepest sympathy.
東アフリカ一の大都市ナイロビを抱えるケニアで発生したテロのニュースを速報で知った瞬間、今までの人生では味わうことのなかった感情が生まれたことを鮮明に覚えている。
「アフリカのイメージ=紛争、テロ、難民、栄養失調、政治的衝突etc…」
このイメージがまた根付いてしまうのだな
等身大のアフリカを知ることなく負のイメージがまたひとつ蓄積されるのだな
そう感じた。
確かに上述のアフリカのイメージというのは間違ってはいない。
今も数え切れないほど多くの人たちが常に不充足を感じながら生きている。
はず…
19歳にしてここまで偉そうな文調で書いている自分ですら「〜はず」としか説明できないアフリカ。1度だけではあるが渡航経験がありながら…
そもそも文化も宗教も言語も食べ物も国民性も過去の歴史も「違う」アフリカ諸国をひとまとめに「アフリカの○◯」という風に書くことすら違和感を覚える。
それほどアフリカ大陸というフィールドには、我々が思い描くイメージとは「違う」いろんな色のアフリカが詰まっていると思う。
事実を自分なりに解釈して個々の意見を持つことは素晴らしいことだと思う
一方でイメージを自分なりに解釈して意見を持つことは時として偏見を生みかねない。
例えばこんな見出しのニュースを見てあなたはどう思うだろうか?
「ケニアで襲撃 ムスリム、キリスト教徒をかばう」
時は2015年12月21日、ケニア北東部マンデラ県のソマリア国境付近でイスラム過激派勢力がバスを襲撃したところ、ムスリム(イスラム教)の乗客たちがキリスト教徒をかばったという。
記事によれば、ムスリムの乗客はアルシャバーブの兵士に向かって「殺すなら一緒に殺せ。そうでないなら放っておけ」と叫び、一緒に乗車していたキリスト教徒と区別されることを拒んだという。乗客たちの団結を目の当たりにした武装勢力は直ちにその場から立ち去ったのだという。
「まるで映画のようで本当の話」とでも言っておこうか
そしてここにも大きな「違い」を乗り越えたからこそ生まれた奇跡があるのである。それは宗教である。テロリストによるバスジャックに遭った瞬間、武装した人間に屈するか大きな宗教の壁を乗り越えるかという究極の選択肢がムスリムの乗客に突きつけられたのであろう。
自分の無知さもあって「異」宗教の人に手を差し伸べるのが称賛されることなのか否かは分からない。しかし一つだけ言えることは彼らには「違い」を認め受け入れる精神が宿っていたということである。
では日本人はどうであろうか?
自分とは性格が「違う」人間、考えが「違う」人間、容姿が「違う」人間、自分の思い通りとは「違う」結果
なんでもいいから自分とは「異なる」何かを思い浮かべてみてほしい。
日々の何気ないひと時、あなたは「違い」を本当に受け入れられていますか?
事実を知らずして物事をイメージのまま想像のまま受け入れてしまうことは時として静かな凶器になりかねない。
「等身大のせかいを知りたい」
それがバックパッカーとして旅人として19歳の大学生として世界中に繰り出したいと思わせてくれる理由なのかもしれない。
こんなことを書く自分も他人から見れば「変わった」人間なのかもしれない
でも周りに同化するなんて勿体ないと思う
「違い」に寛容になろう、「違い」を強みにしよう、「違い」を歓迎しよう。
そう考えられるようになった自分は今までとは「違う」のかもしれない。